V6と私(長編ver.)

 その日、何気なくYahoo!を開いてそのニュースの見出しを見たのと、友達からのラインを受信したのはほぼ同時だった。

「V6解散だって」

 始めに言っておくと、私は26年間彼らを追いかけ続けてはおらず、現在進行形の熱心なV6のファンというわけではない。むしろ熱心に追いかけていた期間はとても短い。コンサートは両手で足りるくらいの数しか参加していないし、CDも初期の何作品かしか買っていない。でも何となくずっと応援していて、都合のいいときだけ盛り上がる。友達の言葉を借りて言えば完全な「幽霊部員」だ。これはそんな私とV6の思い出記録(詳細ver.)である。簡略版とお気持ち表明については過去記事をどうぞ。※もともとこちらの文章を書いていて長くなりすぎてにっちもさっちもいかなくなってしまい簡潔に書き直したものなので、この記事と重複する内容や表現があります。
 
 解散の日が近づくにつれ、「今日が最後の番組出演」「テレビでの音楽パフォーマンスは今夜がラスト」等の呼び込みでのテレビ出演が多くなり、どうしようもなく淋しくなってしまった。淋しくなってしまったので、このどうしようもない気持ちを昇華させるためにアウトプット作業をすることにした。主に自分と、当時から仲良くしてもらっている友達向けに書いている。でも私の事を全く知らない人ももしかしたら読んでくれるかもしれないので、そのことはいちおう忘れないように書こうとは思っている。
 書いてみて自分でも驚いたが、長い。長い上に、まあまあ詳細に書いたので身バレの可能性もある。とは言え、この内容で暴かれる情報で私の何かしらが脅かされる危険性は極めて低いと思われるので、開き直って思い出せるだけ書いてみる。本当にただの思い出話なので、それでもまあいいよという方だけ長距離移動の時間つぶしにでも読んでいただければ幸いだ。

 V6が結成・デビューしたのは1995年。当時私は高校1年生で、SMAPが好きだった。「SMAPのがんばりましょう」という番組を毎日欠かさず見ていた。月~金の帯番組で、曜日ごとに内容が異なるバラエティ番組だったので、ビデオテープを5本に分けて録画保存していた。夏休みにはこの録画と、その前の年のSMAPのコンサートツアー「SEXY SIX SHOW」のビデオを繰り返し見ていた。本当に毎日見ていた。病的である。
 そんな、当時の私のほぼ生きがいとなっていた「SMAPのがんばりましょう」も1995年の9月に終了してしまう。とても残念だった。でも後番組の「冒冒グラフ」が面白かったのでその時間帯の深夜番組はけっこう見続けた。「冒冒グラフ」のあとの「猛烈アジア太郎」くらいまでは見ていたかな。今田耕司原千晶のコンビ好きだったよ。

 急にV6ともSMAPとも何の関係もない「冒冒グラフ」の話をしてしまったが、これには理由がある。私はずっと「がんばりましょう」の後番組が「Vの炎」だと思っていた。でも違った。「がんばりましょう」の後番組は「冒冒グラフ」だった。だから私は「Vの炎」は放映開始当初、完全にノーマークだったのだ。後番だったらたぶんそのまま見ていたと思うから。
 そもそも「がんばりましょう」も友達に教えてもらって見始めたが、同じ友達に「『Vの炎』っていうのが何かすごいよ」と言われて、何かすごいって何?と興味を持ったのだ。
 この「Vの炎」とは、V6デビュー前の1ヶ月間、メンバーのお披露目とワールドカップバレーボールのPRを兼ねて放送された番組だ。1回約10分の連続ドラマで、月曜から金曜の週5回放送されていた。友達の言ったとおり、何か色々とすごかった。V6のみんなが自分の名前と同じ役名で出演する中なぜか森田くんだけ「ハヤシ」という名前で出てきたと思ったら早々に交通事故で死んじゃうし(そしてすぐに「ハヤシ」に瓜二つの「モリタ」が登場し話が進む)、ナガノくんは「おためごかしも大概にするんだな!」とか言いながら放り投げて宙に浮いたノートパソコンをタイピングするし(「おためごかし」なんて言葉は40年以上生きてきて一度も使ったことがない)、ミヤケくんは突然アンニュイな表情でオカリナを吹き始めるし(影響を受けてオカリナを買ったりは別にしなかった)、ナレーションは「スケバン刑事」や「ヤヌスの鏡」などであまりにも有名な来宮良子さんだ。さらに、V6のお披露目的な役割もある番組のはずなのに、主題歌はなぜかV6の楽曲ではなく、相川七瀬のデビュー曲「夢見る少女じゃいられない」だった。私は未だにこの曲を聴くと「Vの炎だ!」と思ってしまう。どうでもいいけど相川七瀬さんはこの曲でその年の紅白に出ているんだな。V6は初出場まで19年かかったのにな。
 そんな「Vの炎」という変なドラマに私はすぐに夢中になった。作中でオカダくんと絡むテニス部男子のせりふは私のものまねレパートリーのひとつとなっている。ものすごく限定されたコミュニティにおいて披露すると未だに大変喜んでもらえる。オカダくんの「あいつらよ、おれの才能を見抜けず、球拾いや雑用ばっかりやらせるんだ」に対しての「そりゃ本当に才能がネーからダロッ」(巻き舌)というせりふだ。
 やがて「Vの炎」が終了し、ワールドカップバレーボールが開幕し、私はその流れのままV6を応援するようになった。

 V6という存在を知ってから夢中で追いかけるようになるまでのことは、同時進行でSMAPを応援していたこともあり、ふわふわとしてあまりよく覚えていない。「Vの炎」がめちゃくちゃでおもしろくて、いつの間にか「MUSIC FOR THE PEOPLE」のCDを買って、そのたった1枚の8cmシングルをずーーーーーーーーっと聴いていた。本当にずーーーーーーーーーっと聴いていた。夏休みの間中「がんばりましょう」と「SEXY SIX SHOW」のビデオをヘビロテしていた状態と同じくらい病的だ。私に「がんばりましょう」や「Vの炎」の存在を教えてくれた友達の家に行ったり私の家に来たりして(まあまあ家が近かった)、ご飯を食べたりおやつを食べたり、たまに勉強をしたりしなかったりしながら、とにかくずっとCDを聴いていた。表題曲と、カップリング曲。そしてそれぞれのカラオケ。この4曲しか手元に音源がないので、カラオケすら熱心に聴き入っていた女子高生2人である。
 ワールドカップバレーもゴールデンタイムのテレビ放送はほぼ全て見たし、期間中フジテレビ深夜に放送されていた「バボフラGIG」も毎回欠かさず見ていた。これは「ワールドカップバレー’95をV6と一緒に盛り上げよう!」という趣旨の番組で、各国の選手を取材して紹介したり、日本選手の応援決めポーズを作ったりしていた。DJの赤坂泰彦氏とトニセンがMCをしていて、スタジオ生放送だったため、当時18歳未満だったカミセンはVTRのみの出演だった。私はこの番組に熱心におたよりを送るなどしていたよ。ケニアの女子チームが自国の練習コート(野外)で「若者たち」を歌っていたとか、クロアチアの選手(確かイエリッチ選手)が「日本食は嫌いじゃないけど味噌汁だけは苦手なの!ごめんなさい!」と言っていたこととか、ピンポイントな記憶がチラホラあるあたり、まじめに見ていたんだなあと我ながら感心する。そう言えばここ最近ワールドカップバレーでデビューするグループがいないなと思ったら、2011年に「試合前のパフォーマンス禁止」というルールができて、さらに2020年にはグラチャンとともに大会自体が消滅していたんだな……知らなかった。

 ちなみに私がV6に夢中になり始めた頃、その1年ほど前に知り合った別の友人も、私よりちょっと早くからV6を応援いていたらしい。もともと井ノ原くんが好きで注目していたとのことだ。デビューシングルも初回封入特典のメモ帳付きを買ったと言っていた。メモ帳付きだから、分厚くてCD2枚取っちゃったかと思ったって。私は発売からけっこう経ってから買ったので残念ながら特典付きの初回版は売り切れていた。

 デビュー当時のV6はまだファンクラブが設立されておらず、インターネットも今ほど普及していなかったので、新しい情報は毎月発売されるアイドル雑誌と「ジャニーズ情報局」が頼りだった。「ジャニーズ情報局」とは、官製はがき12枚に自分の住所・氏名と「担当(自分が応援しているメンバー)」を書き、封筒に入れてジャニーズ事務所に送り、「担当」に関する新しい情報が発表された時に印刷して送られてくる、不定期のかわら版である。はがきを12枚送ったからといって、ひとつきに1枚送られてくるわけではない。一週間のうちに2枚も3枚も来ることもあれば、半年以上音沙汰がないなんてこともある。私はこれに「V6」と書いて送った。いやグループ名じゃなくて個人名を書いたんだっけかな……記憶があやしいが書いたとしたら「V6(岡田准一)」とか「岡田准一(V6)」とかって書いたんだろう。
 初めてこのはがきに情報が印刷されて届いたのは、確か「事務所の先輩グループのコンサートにV6がゲストで出るよ!良かったら会いに来てね!」という内容だったと思う。1996年の、1/4~1/8あたりの武道館。日付が曖昧だけど、このときに見た国分太一くんがめちゃくちゃめちゃくちゃめちゃくちゃに可愛くて、それはもう本当に可愛くて、今でも定期的に思い出しては「可愛かったな……」って思う。もちろん太一くんは今でもかわいいです。

 日程がやや前後するが(情報局からのはがきはこっちの情報が先だったかもしれない)、1995年のクリスマス前と、1996年の1月末にはV6初の単独コンサートツアーが開催された。大阪1公演と東京2公演、計3公演の「ツアー」だ。
 初の単独コンサートは東京よりも先に大阪城ホールで開催されて、すごく行きたかったけど、生まれも育ちも北関東の高校生にとって大阪はちょっと遠くて諦めた(大阪なんて、へたしたら当時の県立高校の修学旅行先である)。そのかわり東京公演は2公演とも行く!と意気込んだ。東京公演は「ホワイトシアター」という、大阪城ホールと比べてずいぶんと小さな会場での開催だった。V6が華々しくデビューした代々木第一体育館の敷地内に建っていた、通称「テント小屋」。SMAPの年越しコンサートや、シルク・ドゥ・ソレイユの「アレグリア」なども上演された特設会場だ。1,500席くらいの小さな会場というイメージだったが、調べてみたら「3,000人収容可能」(当時のスポーツ新聞より)だったらしい。そんなに広かったとは驚きだ。フォーラムAの1階席分くらいあるじゃん。

 ファンクラブがなかったので、コンサートチケットは一般販売のみ。その頃はチケットをとると言えば発売日にプレイガイド店頭に並ぶか、繋がらない電話をかけ続けるか、どちらかの方法しかなかった。真冬の寒空の下、朝の7時くらいにぴあカウンターのある百貨店に出向いたらシャッター前にはすでに10数人並んでいた。もちろん全員がV6目当てではなく、私の前か後ろに並んでいた人はマライア・キャリー目当てだった。初の来日公演でワールドツアー初日の東京ドームだ。確かあの時は販売開始から2分くらいで「マライア・キャリーの東京ドームは全公演完売しました」ってアナウンスされていたような覚えがある。私は友達と2人で並び、無事にホワイトシアター2公演分のチケットを取ることができた。いま思うと、このとき私たちの前に並んでいたのは実はほとんどがマライア・キャリー目当てで、2分で完売したから私たちの順番がかなり繰り上がって、そのおかげで取れたんじゃないか?という気がしてきた。ちなみに、このときにチケットを取ってくれたぴあのお姉さんは、今年の6月にぴあカウンターの全てが営業を終了するまで、V6以外にも色々な公演のチケットを取ってもらった。最後にぴあ店頭でチケットを取ったのは2019年の10月だが、それまで本当に何度もお世話になった。コロナ禍以降は一般販売のチケットを店頭で取るということもなくなってしまったけど、何気にものすごく長い付き合いだ。私の人生でいちばん付き合いの長い他人かもしれない。これからもどうかお元気でいてほしい。名前は知らない(知らないんかい)。

 ホワイトシアターで行われたこのコンサートは映像化されていて、客席が映るシーンでは私も自分だけがわかるくらいに映っている。友達と3人で行ったんだけど、縦に並んでたんだよな。友達のうち1人がサトウアツヒロさんを大好きで、MCのゲストで出てきたときにはギョエエエエエエエエ!!!!!!って叫んだ。リアルにそう叫んだと思う。いい思い出。コンサート前日のミュージックステーションでセカンドシングルの「MADE IN JAPAN」が初披露されて「これは!!明日絶対歌うよね!掛け声を練習してこいってことだよね!!」と友達とめちゃくちゃ予習して行った。
 楽しかったなホワイトシアター。友達がチケットを譲ってくれて一緒に行った、私にとって最初で最後のSMAPのコンサートも年末のホワイトシアター公演だった。ホワイトシアターはもうなくなってしまったが、いい思い出しかない。

 その後のコンサートツアーはだいたい3~7大都市で行われて、私は基本的に横浜アリーナの公演にのみ参加していた。横浜しか行ける場所がなかったとも言う。でもその中で仙台公演に1回だけ行った。仙台サンプラザみたいな小さな会場でV6を見るなんて今思えばものすごく貴重な体験だ。しかし仙台サンプラザにはその後の人生で別のアーティストを見に何度も行きすぎてV6の記憶は残念ながらほとんど残っていない。
 いつかのツアーで有無を言わさず追加公演に振り替えられたこともあった。振替先がド平日で、学校あるし行けるわけないじゃんって泣く泣くチケットを無駄にしたな。「申し込み多数につき追加公演が決定しました」というお知らせとともに、申し込んだ覚えのない・行けないゴールデンウィーク前後の平日の日付が記載されたチケットが4月の末に届いた時の絶望感はもう味わいたくない。味わいたいと思っても味わえるものでもないか。当時は有無を言わさず追加公演に振り替えられたチケットが送られてくるというのは別のグループでも良くあることだったようだ。今はどうなんだろう?今くらいネットが普及していれば譲ることもできたんだろうけど、その頃のチケットの譲渡・交換は雑誌投稿とか現地でやりとりするとかしか方法がなかったからなあ。

 コンサートと言えば「影アナ」も楽しみのひとつだった。開演前にメンバーが注意事項をアナウンスしてくれて、当時は録音で毎回同じ内容だったけど、ひとりひとり「森田剛です」「三宅健です」って自己紹介するたびに客席からキャーッという歓声が上がっていた。「三宅健でーす」キャー!!「会場の外で売られているグッズは全てニセモノです!みんな会場内で売っているグッズを買ってね!こっちの方が全然かっこいいよー!」キャー!!
 あとはもう、横浜アリーナでは毎回「前後の座席との間に物を落とすと二度と拾うことができません」という注意(これはメンバーではなく会場のアナウンス)(つまりガチのやつ)が怖くて怖くて震えていたとか、1996年の夏のツアーで坂本くんが「みんなカイワレ食べような!!」って言っていたとか、本当にどうでもいいことばかり覚えている。
 岡田くんが曲中にスタンドマイクだかセットだかで頭を打って怪我して頭にタオルを巻いて出てきて、そのまま最後までやったなんてこともあったな。あの時はアリーナバックステージから見ていて……ステージセンターにカミセン3人が集まって肩を組んで歌っているときに剛くんが岡田くんの尻を一瞬だけムギュっとわしづかみにした……ように見えた。まぼろしだったかもしれない。
 1996年12月から1997年1月にかけてV6本体のツアーと同時進行でトニセン初の全国ツアーが開催されて、それには東京厚生年金会館の1公演だけ行くことができたけど、そこにゲストで出てきた岡田くんが確か頭の包帯を隠すために帽子を被っていたような記憶があるから、怪我をしたのはその時のV6本体のツアー中だったのかな。

 ところで、M-naviというテレビ番組をご存じだろうか。1996年4月から9月にかけて、TBSで金曜深夜に放送されていた音楽情報番組だ。
「むこう一週間の音楽情報を完全ナビゲートするエムナビ!」というキャッチフレーズの通り、放送日から向こう一週間分の音楽情報をお届けする30分番組。CDの発売やコンサート情報、新曲のライブ、注目の新人紹介など、ランキングはあったかどうか覚えていないが、その番組内に「J-navi」というワンコーナーがあった。J-naviのJはジャニーズのJだったのだろうか。もしかしてV6以外のグループも扱う予定があったのかなあ。結局最後までV6のコーナーだったからV-naviってタイトルでも良かったんじゃないか。まあどうでもいいけど。
 岡田くんを東京人にしようと浅草を散策したり、みんなで井ノ原くんの誕生日をお祝いしたり、その時に井ノ原くんをのぞいたトニセンが選んだ誕生日プレゼントがサイババのステッカーだった(開ける前に井ノ原くんに「またなんかサイババとかそういう変なの選んだんじゃないの~」って言われた坂本くん長野くんの2人が「先に言われちゃったね……」としょんぼりしていたのがかわいかった)り、剛くんがオグリキャップにファンレターを書いたり、みんなで屋形船に乗ってコスプレしてカラオケを歌ったり相撲をとったり、色んな企画があった。コーナーごとに「次は○navi!今日は注目の新人アーティストがライブをお届け~」みたいな煽りが入るんだけど、回を重ねるごとにだんだん慣れてきたナレーションが「お次はお待ちかねのJ-naviのコーナー!今夜のV6はどこへどこへ~?!」って軽~い感じで始まるのが好きだったな。そしてスタジオで1曲。当時V6はあまりオリジナルの持ち歌がなかったので、カップリング曲とかカバー曲とかアルバム曲とかをテレビで聴けた貴重な番組だった。おもしろかったなあエムナビ。もうビデオデッキがなくて見ることができないのにテープが捨てられないよ。余談だが当時デビューしたばかりのミッチーこと及川光博さんを初めて見たのもこの番組で「求めすぎてる?僕。」のスタジオライブは衝撃だった。友達と電話しながら見ていたけど、2人ともまさに「開いた口がふさがらない」という感じで、間奏中にカメラに向かって「僕ミッチー!よろしく!ハハッ!」と言いながら近距離投げキッスされた瞬間に絶叫&爆笑だった。J-naviの部分だけビデオに録画する準備をしてミッチーの部分を録画していなかったことを後悔した。後日すぐにCDを買いに行った。「理想論」は名盤だ。ミッチーもこの頃からずっと好きだけどライブは未だに行けてないなあ。一度は行ってみたい。

 そんなM-naviが絶賛放送中の1996年の夏にはファーストアルバムが発売された。
「SINCE 1995~FOREVER」というタイトルは、ファンの間でちょっと物議を醸したと思う。いや、だって、そんな、最初で最後のアルバムみたいなタイトルある?今思えばこれは壮大な伏線になったというか、後にV6は本当に「SINCE 1995~FOREVER」みたいな存在になったわけだが、当時のファンはちょっとナイーブだったのだ。なぜなら、当時彼らは、一部では「長くても丸一年で解散予定の期間限定のグループ」と言われていたから。そもそもデビューシングルからしばらくカップリングはカミセンの曲だったし、トニセンが「アダルトチーム」じゃなくちゃんと「20th century」って名前がついて活動し始めたのも、ネクストジェネレーション(トニセンのラジオ番組)が始まったくらいからだし、初期のV6は、早々に解散してカミセンだけ活動を続けるプランを全然隠していなかったようにすら感じる。最終的にはV6とカミセンが解散してトニセンだけ活動を続けるという、当初の予想と全く違う方向に落ち着いたのは何とも珍妙な結果だなと思う。ネットも普及していない当時の噂だから、ごく一部でしか言われていなかったと思うけど、それでもファンの中には「いつ解散と言われるか」みたいな緊張感はしばらくあったのではないだろうか。
 そんな空気が少しずつなくなっていったのは「学校へ行こう!」が始まってからかな。「愛ラブSMAP」というテレ東の番組が「愛ラブジュニア」になって、当時SMAPTOKIOも冠のレギュラー番組があったのにV6はジュニアに先を越されてしまった……という悲壮感もあった。そんな中で始まった待望のゴールデンレギュラー番組。まさかこんなに長く愛されて、V6の代名詞になるような番組になるとは思っていなかったなあ。未成年の主張はどうか知らないけど、公衆電話からおうちに嘘のお泊まりの言い訳をするコーナーで地元に来たことは知っている。誰が来てくれたんだっけな。坂本くんと健くんだっけかな……。

 結成から1年8ヶ月が経過した1997年の7月、ようやくファンクラブが発足した。それに伴い「ジャニーズ情報局」からのV6の情報発信も終了となった。なったと思う。明確なお知らせはされた覚えがない。1995年末に12枚はがきを送り、1997年7月までに受け取ったのは10枚に満たないくらいだったような気がするが、さすがにそれはないか?最初に送った12枚は(V6に直接関係ないジュニアの情報含め)全部使い切って、二週目が半分くらいで終わったんだったかな?

 私はファンクラブには入らなかった。その理由は、高校生だった私にとって「年会費」というもののハードルが高かったから。具体的な金額は覚えていないし、たぶんそんなに高額でもなかったけど、それでも「お小遣い一ヶ月分」か「コンサート1回分」くらいではあったと思う。コンサートのために都心に出るたびに往復の交通費がかかっていたし、子供だったので「情報」や「運営」という、目に見えて手元に残らないものに、それだけのお金を払う余裕はなかった(官製はがき12枚を準備するのがせいぜいだった)。
 そしてこの頃から、ファンクラブ会員でないとコンサートのチケットを取るのが難しくなったこともあり、私はだんたんと現場から離れていった。


 その後、現場を離れた私は彼らとデビュー10周年の2005年に「再会」を果たすことになるのだが、それまでの間にもちょこちょこ細かい思い出があるので書いておこう。

「ジャニーズ情報局」のくだりで少し触れているが、熱心に追いかけていた頃、私は岡田くんのファンだった。
 デビューしたての頃の岡田くんは本当にかわいくて、踊りも全然踊れていないし、「Vの炎」では東京の高校生役なのに思いきり関西訛りが出ちゃうし、剛くん健くんは真っ黒でお肉も全然ついてなくて棒みたいだったのに、まあそんなギャルみたいな二人ももちろんそれはそれでかわいかったんだけど、カミセンで一人だけ真っ白でぷよぷよしていておもちみたいだったし、私が今でもJr.の中でいちばん造形が美しいと思っている佐野瑞樹に似ていたし、とにかく本当にかわいかった。でも成長するにつれてカッコイイ路線にシフトしていって(よく考えたら当たり前なんだけど)、だんたん私の求める岡田くんではなくなってしまった。
 そんな感じで「私は岡田くんのファンです」と言うのにちょっと違和感があるんだよな……なんて思っていた1998年頃、岡田くんが派手なパーマをあてたことがあった。私はその髪型が本当に嫌いで、もうあんまり露出チェックもしていなかったくせに毎日のように「早く髪を切ってほしい」と思っていた。そして友達に「あいつが(あいつて)あのパーマを丸めて坊主にしたら、私は今後素直に岡田ファンを名乗ってもいい」と謎の上から目線発言をしていた。
 そうしたらなんと、ある日本当に坊主になって出てきた。坊主で金髪。あらまーヒヨコみたいでかわいいねーなんて友達と話していた。それ以来、私はちゃんと「V6の岡田ファン」を名乗って生きている。聞かれなければ自分から言うことはないけど。

 2003年に公開された映画「ハードラックヒーロー」は今でもときどき猛烈に見返したくなる作品だ。
「6人が主演のコメディ」なんて、デビュー当時からのファンなら誰だって「Vの炎」をを連想するのではないだろうか。それで期待をするか、逆に嫌な予感を抱くかはそれぞれだと思うが、私としては期待以上のものだった。そもそも「Vの炎」と違ってまじめな企画だからな。
 とにかく6人全員作画が良い……。特に岡田くんは「こういうのでいいんだよ」と言いたくなる(だからなに目線なんだ)ビジュアルで、冒頭の調理白衣とラストの病院シーン、あと後日談の白パーカー姿が本当に最強。
 ハンドルを握ると人格が変わる長野くんも、巻き込まれ系不運の坂本くんも、仲良くフリーターしてる剛くん健くんもかわいすぎる。井ノ原くんの役は、あれ店長だったんだ。あのバーテンぽい衣装もよかったな~。アマプラにある?あるなら入る。
 しかしハードラックヒーローのことを思い出そうとするとなぜか同時に「ジョビジョバ・イン・トラッパー」のことを思い出してしまう。思い出すたびに「6人ということしか共通点がないぞ!」と思っていたけど、メインキャラクターがボクシングをしているとか車での逃走劇とか、実はわりと雰囲気が似ていた。トラッパーって結末どんなんだったけ……。蛇足だが「ジョビジョバ」とは、1999年頃から2002年までの間私が夢中で追いかけていた6人組のコントユニットである。2002年末のライブを最後に活動を休止していたが、2014年にU1グランプリの企画で再結成し、現在も定期的に集まって活動しているようだ(2014年と2017年のライブは行ったよ)。

 時は流れて2005年11月。V6は10周年記念のツアーとあわせて握手会を開催した。なんとその握手会に、友達の厚意で、参加する機会をいただいた。その節は本当にありがとうございました。いま思い返すとまともなお礼ができていないな……今度会ったときに何か……。
 会場は仙台市体育館
 私は当時勤め先の事業所が閉鎖してしまって無職だった。無職じゃなければ休みが取れなくて行けなかったかもしれない。いろいろな巡り合わせがあって参加できたのだと思うと感慨深い。
 私はそれまでに何度か参加したコンサートでは宗教上の理由で必ず井ノ原くんと岡田くんのうちわを買っていたが、数年ぶりに参加するコンサートで誰のうちわを買おうかと悩んでいた。もうその頃には、公約通りにいちおう岡田くんのファンを名乗りつつも、実際には特に誰のファンということはなく、双眼鏡も構えたいし、今回はうちわは買わなくてもいいかな……と思っていた。
 しかし、握手会を終え、コンサート会場に入り、気づけば驚くことに6人分のうちわを購入していたのである。そのくらい握手会の威力が凄まじかった……。「誰かひとりを選ぶなんてできない!」という謎の感情が沸いてあのバカでかいうちわを6本も買ってしまった。今は個別じゃなくて6人集合のうちわがあるのね。あのときにそんな便利なものがあれば1本ですんだのにな。いやでもあの時のテンションだったら6人分+集合で7本買っていたかもしれないな。増えてるわ。
 握手会は、コンサート直前にも関わらず、ものすごい人数を相手に6人とも笑顔で対応していてすごいと思った。中でも健くんが両手でしっかりと手を包んでくれて、恋に落ちるかと思った。
 コンサートは何かMCで下ネタを喋っていたような……今日は偉い人が見に来ていないから大丈夫!とか言っていたのはこのときだっけ?
 コンサート後は、東京から参加していた友達2人を仙台駅で見送って、地元から一緒に参加した友達と仙台に一泊して翌日は観光をして帰った。

 10周年コンサート&握手会でワーッて盛り上がって、改めてファンクラブに入ろう!ってなったかと言うと、そうはならなかった。その頃何か他のグループとか芸能人とかにハマっていたわけではなかったんだけど、無職になったばかりでそれどころではなかったのかもしれない。見たいときに見て気が向いたときに楽しむくらいがちょうどいいと思ったのだろう。
 そんな(私としては)ほどよい距離感を保ったまま、15年が過ぎた。
 この15年の間に、私は思いがけず生涯をかけて応援し続けるだろうなという対象と出会い、今現在もものすごい勢いで追いかけている。大人になってからの出会いだったので、V6と出会った頃とは行動力も経済力も違う。だからこの15年で本当に人生が変わっし、新たな出会いや経験のボリュームはこの15年が圧倒的だ。それでもやっぱり思春期に出会ったV6が私の人生に与えた影響は大きく、高校時代のことを思い出そうとするとそこには必ずV6(あと6人のSMAP)がいる。

 時系列を追って、話はようやく冒頭に戻る。
 2021年3月12日。仕事が一段落したタイミングで何気なくYahoo!を開く。トップニュースのトピックの中に「V6」の文字が見えた。その後に続く文字は「解散を発表」。


 ??????


 は?どういうこと?

 
 解散?解散って?V6ってあのV6?去年デビュー25周年を代々木第一体育館でお祝いした、あのV6が解散?
 は~やれやれ、どうせまた東スポあたりの記事で「ついに解散(か?)」みたいな下らない記事なんでしょ?フゥー、ちょっと動揺しちゃったわ……やだやだ……でもまあ念のため見ておくか……これでこの虚構ニュースのアクセス数が増えるのも癪だけど、やっぱりちょっとだけ気になっちゃうからね。


 マジだった。


 ちゃんと公式からのコメントも載っている。昨年25周年を迎えて、その翌年の同じ日に解散するんだって。まさに青天の霹靂。関係ないけど「青天の霹靂」という青森のブランド米はおいしい。名前も最高だし、パッケージがかわいくて優勝。

 デビュー当時一緒に熱狂していた友人たちも、晩年(?)は私と同じように、他にメインで夢中になっているものの傍ら、まったりとV6を応援していた。私がYahoo!を見て動揺している時に速報のラインを送ってくれた友人もその一人だ。解散が発表されてから数日間はSNSでV6の思い出話で盛り上がった。それぞれ違うものを中心とした生活をしているのに、今でもそんな風に仲良くしてもらっている友達には感謝しかないとしみじみ思う。

 ずっと「なんでラストコンサートが代々木じゃなくて幕張なの?」って思っていたんだけど、コンサート前に放送されたアド街で「本当は代々木でやりたかったんだけど、五輪のために改装して、その後の再改修が11月1日までに終了しないから」と井ノ原くんが言っていた。ほんとまじで五輪……。無理やりにでも幕張の思い出をひねり出してMCで喋る予定だと言っていたけど、実際にそんな感じのMCはあったのだろうか。

 ラストコンサートの配信は、私は結局見なかった。理由はいろいろあるけど、見なかった。
 ステージ上でメンバーは誰も泣かなかったし、本当にプロのアイドルだった、と配信を見た友達が言っていた。翌日のテレビでファンがインタビューに答えているのを見たら「あまりにも普段どおりの6人で、これで終わりとは思えない。明日からもこのままずっと続くんじゃないかと思った」と言っていて、ああなるほど、そう感じさせることもとても大事なんだなと思った。「1、2年後に再結成あってもおかしくない」なんてことも言われていたけど、私としては、10年後くらいに坂本くんと健くんが結婚するとか、何でもいいけど何か良い理由で集まって「解散後に6人揃ったのは初めて」なんて言ってくれたら最高だなと思う。

 本当に、6人ともこれからも体を大切に、ずっとずっと幸せであってほしい。V6に関わった全てのスタッフやファンの皆さんも、どうかお元気で。ここまで読んでくださってありがとうございました。